村田修一~2018年引退選手個人的回顧録⑥~

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ええ。まだ続きます。

前回の最初の時の言い回しが自分でもかなりおかしな日本語になってるのは気づいてたんで、おそらく皆さん察してましたよね?そこまで興味ないか…

まあいいや。ということで、今回は村田修一選手。今年のこのシリーズは正真正銘ラストです。

それではどうぞ!

 

 

「優勝」したい。

 

2011年オフ。横浜の村田修一がFA宣言をした。チームではお山の大将として4番にどっしり座り、かつては2年連続HR王のタイトルを獲得。そんな男がまだ見たことのない「優勝」の景色を夢見て、巨人入りを決断した。

 

2011年の巨人のサード(ファースト)は、歴代でもかなりヤバかった。本来なら中軸を担う強打者が座るポジションだが、ライアルがライアルだったり、小笠原が突如不振に陥ったりした結果、古城や寺内がスタメンという異常事態。その穴埋めを期待されたのが村田だった。

2012年シーズン。村田はその正三塁手のポジションにすっぽりと収まった。打順は主に5番に座り、キャリアハイの成績を残した阿部慎之助を支えた。嬉しい誤算だったのは、その守備力。横浜時代は、ただサードを守ってるだけという印象だったが、そこにあったのは理想の三塁手そのものだった。痛烈な打球に即座に反応し、横っ飛びで押さえる。ボテボテの打球に素早くチャージをかけスナップスロー。捕ってしまえばどんな体勢からでも強く・正確な送球ができる。横浜時代からこの守備をしていたのかは分からないが、少なくとも私はこれ以降、他球団の選手の能力に関して自分で考えるのを辞めた(要するに巨人の選手以外の能力に興味がなくなった)。

それでも、この時私の(そして多くの巨人ファンの)村田に対する正直な感想は「こんなもんなの?」であった。統一球全盛期とはいえ、打率.250 本塁打12は求めていた数字ではない。豪快な打撃でHRを量産する姿は、そこにはなかった。走者がいる場面で進塁打を狙ったり、6年振りの送りバントを決めたりもした。お山の大将でどっしり4番に座っていたその姿からは想像もつかない変わり様。だが、後になって思った村田修一の本当の価値は、三塁手が「固定」できたことにある(と思っている)。

どんな状況でも、とりあえずサード・村田と書いておけば間違いはない。これほどありがたい存在はない。実際、それを痛感した(気がする)のが2015年。この年、5月に一度登録抹消になると、シーズン終盤の9月にもケガで離脱。合計103試合の出場に留まった。結果としてみると、この年も村田が全試合出場していれば、最終盤でルーキーの岡本和真を使い続けていなければ、リーグ優勝は可能だったと思っている。

そんなこんなで2016年まではしっかりレギュラーを張っていた。「継続」という意味では、過去のFA選手の中でも最長かもしれない。その間、成績にはムラがあったものの、一定の水準をキープ。2016年には3割20本をマークするなど、打棒は健在だった。そんな状況が変わったのが、マギーの加入だった。この時、巨人のサードとファーストはベテランの村田と阿部のみ。年間通してのフル出場は難しい中で、そこを補えるマギーに白羽の矢が立った。新しい戦力が入ってきたら、優先的に使われるのはその選手。野球界に限らない常識だろう。マギーはサードに入った。その割を食う形になったのが村田。シーズン序盤は代打稼業が続いた。村田にとって運が悪かったのが、マギーと阿部の状態が悪くなかったこと。そのためほとんどスタメンがないまま交流戦へ。ここで3試合連続HRを放つなど、存在感を発揮し徐々にスタメンが増加。7月からはチーム長年の課題であるセカンドにマギーを起用するプランによって、村田はレギュラーに返り咲いた。最終的には14本塁打を放つなど、限られた出場機会でしっかりとアピールした。

 

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nagatomo

名古屋在住の巨人ファン 「巨人第一主義」が座右の銘 毎日更新中!!

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