山口鉄也~2018年引退選手個人的回顧録③~

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このシリーズは土日の投稿かな?って感じになりそうです。

第三弾は巨人軍史上最高の中継ぎ左腕・山口鉄也投手です

 

 

 

2012年11月3日。日本シリーズ第6戦。最終回のマウンドに君臨した背番号47の後ろ姿から、そのバックグラウンドを想像できる人はいるのだろうか。

 

2001年、神奈川の名門・横浜商業高校でエースを張った男は、1つの決断をする。

 

大リーグ挑戦

 

当初は高校で野球を辞めるつもりだったというが、まさかの大リーグ球団からのオファーに食い付いた。そのまま渡米を決意。マイナー生活をスタートさせた。

しかし、アメリカで芽が出ることはなかった。4年間でルーキーリーグから上がることができずに帰国。日本の球団の入団テストを受けることにした。受けた球団は地元の横浜と当時新設球団の楽天。しかし、両方不合格だった。最後に、記念受験という感覚で、巨人のテストを受験。そこで運命が変わった。「ここまで器用に左打者にチェンジアップを投げられる左投手は中々いない」という理由で(諸説あり)、この年から新設された「育成選手」という立場でドラフト指名された。

知らない人はいないと思うが、育成選手について簡単に説明すると、
・背番号は3桁
・一軍の試合には出場できない
・基本的に3年で自由契約(=クビではない)
要するに、そのチームの選手であって選手でない。他の選手とは明確に違う立場となる。
ここまでは、よくいる(?)苦労人としての話。ここからは野球選手としてのスターダムを、一気に駆け上がっていくことになる。

 

ルーキーイヤーの2006年。二軍の試合で存在感を発揮。球団に大きくアピールする。その年の支配下登録は見送られたが、決死の直談判(?)もあり、2007年シーズン中に支配下登録と2桁の背番号99を勝ち取る。その年、早速一軍初登板。結局32試合に登坂した。

翌2008年。ここから伝説が始まる。尚この辺りから、私の記憶もはっきりしてくる。
新たな背番号47に身を包んだその年、同期入団の越智大祐と共にリリーフ陣を支える。セットアッパーとして勝ち試合を抑えのクルーンに繋ぐ二人は、「風神・雷神」と呼ばれた(山口が風神)。この年はリリーフながら11勝(2敗)を記録。育成選手として初めての新人王に輝いた。

その後は、WBC日本代表に選出されたり、先発転向しながら結局リリーフに戻ったりしながら、登板を積み重ねていった。2012年には防御率0点台を記録し、日本一の胴上げ投手に、年俸は2億4000万円で育成時代の100倍になった。13年オフには3年総額10億円の契約を結び、日本人でありながらアメリカンドリームならぬ「ジャパニーズドリーム」を体現してみせた。

これ以降は打ち込まれることも増えたが、試合登板は継続。結局9年連続60試合登板を達成した。これが日本記録であることは言うまでもないが、何がすごいかといえば次点が「4年」であるということである。これまでNPBに所属した全投手が、山口の半分も継続できていないということになる。いかに素晴らしい記録であるか、ご理解頂けるだろう。名実共に真の「鉄人」である。

しびれる展開の試合終盤。一点差の8回にマウンドに上がり、なに食わぬ顔で抑えてベンチに戻る。山口のキャリアの大半が、これの繰り返しだ。スポーツニュースの編集でピックアップされるのは、好投した先発か、試合を締めたクローザー。間違っても8回に投げたリリーフが取り上げられる事はない。あるとすれば、その回で試合が決まった(=打たれた)試合。H(ホールド)の記録がつくが、白星やセーブと違い規定が複雑で、特に誰も意識していない。そんな位置で、山口は投げ続けた。

 

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nagatomo

名古屋在住の巨人ファン 「巨人第一主義」が座右の銘 毎日更新中!!

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